2015-12-01東日本大震災-岩手における私達の被災地/被災者支援活動について

<“共生ユニオンいわて”としての支援活動の検証への試み>  

                             共生ユニオンいわて  

1.私達の活動の概要の確認

 昨年(2011年)3月11日の「東日本大震災」、その中で岩手県沿岸部を襲った巨大津波の被害に遭遇し、私達「共生ユニオンいわて」はこの未曽有の天災被害に対し、“地元”においてひたすら被災地・被災者への救援・・支援をせねば・しようという思いに包まれました。この思いは「階級的」でも「労働組合として」でもなく、直接的被害に遭わなかった、同じ地方に住む人の責務のような感じ方だったと思います。

 やっとJRが盛岡―北上間の運転を再開した3月17日、私達は第一回対策会議を組合事務所でもち、私達の今次震災に対する基本的方針を確認し、翌日18日には北上市長に面会し、北上市に対して被災者の内陸避難受け入れ=住宅の確保と提供を申し入れたのでした。この申し入れ=「北上市として緊急に対処するべき支援活動の具体的提起」がどのように北上市を動かしたのかは検証で来ていませんが・・・。

 その後4月2日の仙台における全労協としての対策会議・被災地現認と数回の対策会議を経て、「共生ユニオンいわて」としての支援活動を“全労協・全国一般全国協”の仲間によるボランティア活動の後方支援=宿舎と糧食の確保維持を担う、という意思一致を得たのでした。この確認をもって私達は数度の訪問・打合せを経て、かつ遠野市社協・遠野市松崎町7区自治会の協力と賛同を得て「松崎町7区自治会館」を借り受けて4月18日『共生ユニオンいわて・遠野ボランティアセンター』開所にこぎつけることが出来ました。このセンターは遠野を根拠地とするボランティア活動の司令部=総合手配組織“遠野まごころネット”に道路一本を隔てた立地であり、多分、日本バプティスト教会の活動センターに次ぐ、組織としての最も早い活動根拠地の設営であった筈です。ボランティア活動が「自己責任」と「自己完結」を当然=「常識」として唱えられていたときに、私達は仲間達が思いのたけの支援活動に専心してほしいと願い、その宿舎と食事の確保をもって支えることを開始したわけです。この時、2011年10月末まで果たしてやり切れるのだろうか?との不安―体力的・資金的等々―を禁じ得なかったのは当然の思いでした。

 しかし、私達の『遠野センター』は開所日には大阪教育合同労組のTさん―数日前から個人で来ており活動中―を受け入れ、“後方支援”活動をスタートさせたのでした。そして2011年は開所の10月末までに延べ650余名のボランティアを大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市へ送り込むことが出来ました。これを支えたスタッフも延べ250名弱でありました。

 またこの間に私達独自の被災者支援活動として避難所五か所における眼科検診や大槌高校避難所での“お話ボランティア”などを可能な限り実施しました。

 加えて県内外の支援者から供出された生活物資の配布を年末まで適宜実施したことも確認してよいでしょう。

 “センター”維持運営において、一回で最大15名のボランティアを受け入れ、スタッフも5時前起床・23時過ぎ就寝に耐え、かつ宿舎の衛生・整頓を保持に努めました。結果、地域の皆さんから連日野菜等の差し入れを頂いたり、ささやかな交流が続けられたのではないかと思います。

 2012年5月26日から8月11日まで同じ場所で“センター”を再開設し延べ90名のボランティア―殆ど昨年のリピーター―を受け入れました。スタッフも延べ60名でした。

2.私達の活動が切り拓いた(?!)「地平」

 私達の足掛け2年に及ぶ“後方支援”の活動は前節で示した通り、受け入れた仲間のボランティア延べ740名余、それを支えたスタッフ延べ300名余であり、これは「遠野まごころネット」としてカウントされたボランティア数の正確な意味では2%に相当するのではないかと推定されます。「遠野まごころネット」においてカウントされたボランティア数は“内勤”を含めている訳ですから・・・。

 全労協・全国一般労働組合全国協という日本の労働組合としては「少数派」の組織と、「共生ユニオンいわて」という20名に満たない地域ユニオンの共同での力の結集としては―岩手県に限定された活動としては―力を尽くし切った活動だったのではないでしょうか?

 私達の“後方支援”の活動は自衛隊の後方支援連隊のミニ版―自衛隊を単純に肯定するわけではありません―であったかもしれません。私達の“センター”近くのグランドには陸上自衛隊第二師団の後方支援連隊のキャンプが設営されており彼らも一日中部隊等の糧食を手当てしていました。

 被災地・被災者の救援・支援のため自衛隊のほか、消防、各自治体の部隊、そして日本赤十字社等の人々が活動していました。しかし、私達ボランティアと明確に区別しなければならないのは、彼らは「ボランティア」ではなかったということです。彼らは「職務」として従事したのです。即ち、業務命令に基づき、給料・手当を支給され、食と住を確保のうえで被災地における「活動」をしていたのです。派遣各都道府県の警官部隊の場合では3週間交代で・・。

 所謂「一般ボランティア」はアゴ・アシ自前で被災地を訪れ、正しく無償で被災地・被災者の救援・支援活動に汗を流したのです。しかも洗身、宿舎も「自己完結」させられたのでした。こうした全国からの善意の被災地支援の熱い心を抱いたボランティアの心意気を少なくとも私達全労協・全国一般全国協と共生ユニオンいわては被災地岩手県沿岸4市町村において支えたのではないかと思います。

 私達が保持した“遠野ボランティアセンター”運営期間においては一人の体調不良者も事故者も生じませんでした。私達運営スタッフは提供する糧食の安全・衛生に気を配り、宿舎の清掃を徹底した成果だと思います。

 改めて確認したいと思います。自衛隊、警察、消防、支援自治体派遣の人々、そして日本赤十字社のスタッフの方々は懸命に、ひたすらその職務に従事し被災地と被災者の救援に尽くしてくれました。このことは正しく謙虚に評価せねばならないと思います。ならば、ただただ「善意」の熱い思いで日本中から世界中から救援・支援のため被災地―岩手県のみならず―に結集してくれた、旅費も食事も宿舎も衛生保持も全く「自前」でを「当たり前」とされたボランティアの活動をどのように受け止め「評価」するべきなのでしょうか?このことはきっと、被災者の皆さんには区別がつき難いことだろうと思います。しかし、ボランティア活動を担った人々一人々々があえて問い、とらえ返さなければならない問いなのだと思います。それぞれの解答がどのようなものとなるのかは別として・・・。

 私達共生ユニオンいわての"後方支援活動"を支えてくれたのは前述の人的スタッフであり、遠野市松崎町7区自治会の皆さん、そして私達ユニオンを許容し「義理人情」を含めて力を注いでくれた仲間たちでしたし、全国からの資金的援助でした。足掛け2年に及んだ”後方支援活動”に要した金銭的額は約380万円でした。その費用を賄うことが出来たのは全労協・全国一般全国協と共生ユニオン・それを指示する仲間の皆さんによるカンパ約300万円と日本財団の支援金であったことを確認しておきたいと思います。 

 

3.発生が予想される今後の国内(外)大規模震災等に私達の経験をどう生かすのか?

 前2節で、私達が今次「東日本大震災」における岩手の地でのボランティアの支援をサポートする“後方支援”を担った活動については、一橋大学院チームによる「検証」の研究対象となったことを含めて私達の活動がこれまでの“ボランティア活動”-とりわけ労働組合主体としての―としては明確に地平を異にするものであり、その活動がボランティアの皆さんからも「有難う」と言って貰える内容であったことに私達は自己満足以上に淡々と自らの活動を肯定してよいのだと思います。このことを先ずもっておさえておきたいと考えます。

 私達は、被災地―大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市―まで45km~50 Kmの距離を、しかも標高差500mの峠越えを強いられる位置的条件下とはいえ、遠野という地に支援基地・宿舎を構え全労協・全国一般全国協等の仲間のボランティア活動を基本的に支えることが出来ました。斯の「阪神淡路」や「中越」の災害時よりも、より地理的困難を克服して、だと思います。このことを支えてくれた歴史的背景には「明治29年」「昭和8年」の三陸大津波被災時においても遠野が被災前記4地区への支援基地としての「実績」があり、遠野の人々が時空を超えてその精神を継続していたこともあるのかもしれません。    

では、仮に「首都圏直下型」と称される大災害が発生した場合、①地理的に②後方支援の主体は③その活動を受け入れてくれる地域の人々の存在、という課題に直面するのだろうと思い至ります。今次「東日本大震災」において岩手の私達が支援の対象とした沿岸南部4市町へのボランティア活動を成立させたのは前述の遠野の「歴史」のほか、本田遠野市長が「阪神淡路大震災」において県派遣職員の責任者として3ヶ月間現地で活動したという経験があり、それが「遠野まごころネット」の活動を支え包容したという前提があったのだと思います。それゆえ「遠野まごころネット」が岩手南部沿岸地域支援に駆けつけてくれた全国。地球的規模からのボランティアの皆さんの活動の「指揮所」として機能し、被災後1年間で延べ約50,000人近いボランティアの活動を成立させたのではないでしょうか?

 このような今次「大震災」の岩手沿岸南部へのボランティア活動を大枠で支えてくれた条件を、多分想定できないであろう首都圏における大規模災害発生に直面したときボランティアの活動、とりわけ私達が担ったような「後方支援」という活動が成り立つのか?この根本的問いに対する私達の経験を通した当面の「回答」と方策を示す必要が、その責任があるのだろうと思います。なぜならば、発生した大災害で被災した地域とその地の方々に対して国家・自治体=行政としての救助・救援の活動をもってしては「十分」たりえないであろうこと、このことは今次「東日本大震災」において明らかになっているからであり、「ボランティア」という形での個人、組織、団体的な支援活動が自ら湧き出したという現実であり、そしてそれを被災地・被災者の方々が求め受け入れたという事実です。

 ならば、首都圏における―とりあえず“首都圏”という表現にします―大規模災害発生時において被災地・被災者を支援するボランティア活動―ボランティアを支える"後方支援“の基地を設置し、運営を可能にするために私達共生ユニオンいわてが体得した経験、ノウハウ等を()()()()()()方策として示しておくべきなのだろうと考えるのです。このことは実に簡単で①遠野市の松崎町7区の人々に許容され②共生ユニオンいわての組合員と支援スタッフがそれなりの「使命感」を抱き③ボランティアが駆け付けてくれ④①~③を支える資金的援助があった、ということです。

 

4.「労働組合」とボランティア活動

 私達「共生ユニオンいわて」は自ら労働組合だと名乗り、構成員は当然のこととして活動している。しかし、私達が加盟している全国一般・全国協のどの単組とも「共通しない」のは、職場=労働現場を共有しない集団であるということだろう。かつての前身であった「北上合同労組」では少なくとも珠算教室を拠点とする職場的基盤があったと聞き及んでいる。しかし、2000年12月に発足した「共生ユニオンいわて」は地域における意識した、あるいは課題を抱える「個」の結集を求めていた。「労働組合」はともに働く労働者の生命と最低限の労働条件を確保し、発展させようという“最底限綱領”をもって結集軸としている。それは殆どの場合が同一の職場であり、同一の産別=職業別によって成り立っている。しかし「共生ユニオンいわて」は組織的結集軸を「地域・地区」に据えたのでした。

 ロシア革命における“ソビエト”,ドイツ革命では”レーテ“、そして中国革命においては”人民公社“、つまり地区評議会=地区・地域権力の姿を求めたのでしょうか?

 大衆運動、とりわけ労働者の権利と解放の闘いの歴史では、前衛党―自称―と大衆運動組織との関係が「指導」とか「領導」を許容するか否かという課題を常に抱えてきたと思います。そして私達の知る運動の“歴史”では『前衛(党)』を意識する部分が、彼らの規定を運動が越えようとした場合、あるいは彼らの思惑により彼らのヘゲモニーを通そうとする時、労働者・大衆の運動の前進・拡充は"統制“され、結果権力の弾圧もあって苦汁を飲まされて来たのではないでしょうか?

 ところが今次の「東日本大震災」という地域大衆の非常に困難な場面においては 『前衛(党)』も『革新(党)』も何一つ特筆すべき活動をなし得ませんでした。食料も衣服も住まいも困っている被災地に、自衛隊・消防・警察等の公的部隊を除いて先乗りして救援・支援活動を始めたのは関西・越後の自ら被災経験のある又はボランティア活動を体験した60代の人々でした。個人としてです。

 少し時間を経て「連合」が岩手でも“ボランティアセンター”を宮古市や住田町に開設しました。しかし、その運用の主体は彼らの組織構成員ではありませんでした。いわんや“前衛(党)”や“革新(党)”においてもです。

  私達「共生ユニオンいわて」は遠野まごころネット傘下という形態ではありましたが正しく労働組合として構成団体を認知されたのでした。そして、全体で検証できるように私達の運営した「遠野ボランティアセンター」を主体的に維持したのはユニオンの構成員を主軸にしていたのであり、従って結集した仲間のボランティアとの思いが共有され、「同志」的連帯感が深まったのだと思います。

 昨年、今年の私達の「遠野ボランティアセンター」における活動は、小なりといえども、遠野市松崎町7区の人々に私達―共生ユニオンいわてと全国の仲間―の存在を肯定的に受け入れていただき、「遠野まごころネット」においては「市民権」を得ることが出来たのだと思います。そして何よりもセンターのスタッフを担ったユニオンのメンバー、ユニオンの全員とお手伝いいただいた「補助スタッフ」や何かと支援やカンパを下さった多くの人々とがコトバに表せぬような一体感・連帯の気持ちを共感できたこと、このことが最大の成果なのではないでしょうか?

 私達が所謂フツウの労働組合であったのならば、今次「東日本大震災」への岩手におけるボランティアの活動―「後方支援活動」―はなし得なかったのだろうと思います。私達の組織形態と組織構成ゆえ活動できたのだと思います。ならば、私達「共生ユニオンいわて」と同様の組織が日本全国に()()()()()()()のか?それは否であります。()()()()(・い)()と思います。

 

5.「思い」として

 私達「共生ユニオンいわて」では、ここ2~3年前から“自分達は何者であり、何処を目指しているのだろうか?”という議論をせざるを得なくなっています。

 これは、多分、2000年12月に結成されたとき、その中心人物であった人々がその時点から自らと組織に与えた課題だったのではないでしょうか?

 『前衛(党)』の“指導“を願い下げ、職場・職種の利害優先を超え、共に一つの地域・地区の生きとし生くる底辺の人々と、心を同じくする―と思いこんでいるかもしれぬ―人間が、自らの学習と検証と連帯感をもとに、()()()しく(・・)()きて(・・)()きたい(・・・)との思い。この思いが実は「地区党」=人々との24時間を問題としてその解決策を提示なければならない共同体の「核」、を願いながらも”前衛(党)“への概念の払拭を出来かねて、「地域ユニオン」としての結集軸を提起したのかもしれません。

 「共生ユニオンいわて」は構成員の高齢化等もあり、存続を組織内で問うという状況にあります。このことは極めて現実的に、シビアに問うて行かねばならずズルズルと先送りすることはできません。

 しかし、少なくとも、2000年12月結成以降のいくつもの労働相談・争議を解決させたという活動の実績、そして2011年3.11「東日本大震災」に直面しての被災地・被災者支援の活動を、私達独自のスタイル「ボランティアの後方支援」として足掛け2年間担うことが出来た、という事実と中味と自負を淡々ととりわけ若い―私達よりも比較的に、という意味で―人達に知って貰う努力もあって良いのではないでしょうか?