12年前―多分!―『共生ユニオンいわて』に加入したとき私は12歳若い(?)50歳代半ばでした。まだ自分は『現役』だと思っており、男性としての自分もそれなり元気だった(笑)んだと思います。
この12年間に『鈴藤争議』を最大の課題としたいくつかの労働相談があり私達はそれなりの活動をし、それなりの成果を残して来ました。私たちが按ずる岩手の地における労働相談は多くはなく、一体、岩手の地で働く人はどうして『従順過ぎる』のだろう!?と感じていたのは私だけではないと思います。強い印象を現在も鮮明なのは久慈市における『中国人実習生』の権利保持の活動です。
”研修”を終えての帰国を直前にした短い時間の中で、相談を受けた対象の女性達を含めた『実習生』全員の不利益を解消することが出来たのでした。その『成果』が受け入れ先企業の倒産となるとは創造だにしませんでした。
2011年3月11日『東日本大震災』の発災。私たちは遠野にボランティアセンターを設置することができ、足掛け2年、延べ260余日、受け入れボランティア延べ1700余名、スタッフ延べ250名余の活動をすることができました。一橋大学院の方々が『研究』対象としましたが、それとは関係なく私達は結構“スゴイ”力を出したのかもしれません。
この活動を通じて私達は“後方支援”ということを意識化したと思います。思い出してください。
私達の“ボランティアセンター”近くのサッカーグラウンドに陸上自衛隊第2師団広報支援隊の一部が駐屯して、一日中隊員や被災者への食事の支度をしていました。このことによって被災地での隊員の活動と被災者―避難所暮らし―の糧食が確保されていたわけです。とまれ!私自身は元陸上自衛隊の隊員でしたが、軍隊の存在は許容しておりませんが『非常時』においては救助活動における『自己完結』が為されねばなりません。
今次震災対応について、活動の『自己完結』が出来たのは自衛隊=軍隊と、そして私たち“全労協・共生ユニオンいわて”だったと私は思います。警察の部隊も、自治体の応援部隊等も内陸部の宿泊施設をもってしか活動できず、―しかも2週間交替、出張扱い―でした。私達は陸上自衛隊の指弾に匹敵するような姿で日本の労働団体ナショナルセンター最小の全労協の、被災県唯一岩手で全国の仲間のボランティア活動をガッチリ支える活動を担ったのでした。たった●●名の組合員=しかも『高齢者』中心で….。山遊びや、地域活動での“周辺”の仲間達に支えられて。
『震災』から4年半が過ぎました。先日、震災ボランティアとして数度の活動に訪れた東京南部労組の仲間―非正規労働者―達が被災地視察ツアーに来てくれました。ガレキを処理するのに汗を流していた陸前高田、釜石の鵜住居、箱崎や大槌の今を視た彼らは茫然自失の態でした。“何も無い”地にただただ土盛りの壁です!
『共生ユニオンいわて』はまさしく現在的に存続の可否(?)を問われているのだと思います。仲間の皆さん真剣にマジに考えて下さい。私は何処に行くべきか!?
一つの提案です。私達『共生ユニオンいわて』―とりわけ“高齢者”メンバー―は“後方支援”の意識へ転換したらどうでしょうか?簡単煮いえば『隠居』のすすめです。『ご隠居さん』は諮問を持って、それに応えればいいのです。
全国一般労も全労協も1970年前後のジィジィー共が『悪役』を張っています。馬鹿タレ共よさっさと隠居しろよ!少しでも若い人達を信じ委せなきゃ!
“今の若い者は!?って言われていた私達だからこそ、今の”若い者“を信じよう!!